語られることのない言葉2 →Worksに戻る


スペック:2001年9月9日更新、スナフキンの手紙に捧ぐ
背景:2ch閉鎖騒動(2001年8月)が過ぎて以降、いろんなカタルシスが頭の中で起きていた。そんな中で綴ったもの。インターネットというものに抱いていた幻想だったのかもしれない。でも、心の奥底では、まだ幻想を追いかけている自分がいる。この文を多数のサイトで取り上げて頂いた。多謝。


「語られることのない言葉」
私たちが普段生活する中で、そして私たちが人々と触れ合う中で、決して交わされることのない言葉のこと。それは、苦悩の言葉でもあり、悔恨の言葉でもあり、告白の言葉でもあり、愛の言葉でもある。
私たちは、たくさんの語られることのない言葉を持っている。そして、その言葉たちは得てして語られることのないまま、人々の心の中で朽ちていく。
だが、人々は語られることのない言葉を、どこかで語りたがっている。そしてそれが、絶大なまでの力を持つことも、知っているのだ。


匿名掲示板。
その歴史は、パソコン通信という新しいメディアの誕生と共に産声をあげた。
パソコンが電話回線を通して相互につながり、互いにやり取りをするための「あらたなる言葉」を発し始めたのだ。


活版印刷が文字による多方向性コミュニケーションを実現し、電話が音声による双方向コミュニケーションの新しい動きを生み出し、FAXが個人レベルにおける画像を使用したコミュニケーションを生み出す。人間が「声」を発してから生れ出た「コミュニケーション」というムーブメントは、その時代を映し、その世代を投影した。

だが、それまでに生れ出た新たなコミュニケーションは、全て個人のレベルを超え、団体が発する大本営発表となり、企業・経済・政治のプロパガンダとして使われた。激しい検閲に揉まれながら、その存在は人間に浸透するかのように「陳腐化」していく。新しいメディアであるはずのコミュニケーション手段はもはや空気と化した。

そして、既存のコミュニケーション手段が抱えていた大きな特徴、それは「発信者が確定されている」ということだ。
手紙も、電話も、FAXも、雑誌も、本も、映像も、音楽も、そして貴方が発するその声も、すべてその発信元は特定できる。ということは、そのコミュニケーション手段を持って言葉を発した者はその言葉に全責任を追わなければならない。私たちはその事実を当然のように受け入れ、今も生活している。何の違和感も持たずに。


全責任を追わなければならないということは、そのようなメディアを通じて個人が発するこのの出来る言葉は限られるということと同じだ。

たとえば、貴方の目の前に普通の付き合いをしている友達がいたとしよう。
その友達に、貴方は何を話すだろうか。

「さっき放送していた「めちゃイケ!」の内容について」…ふむ、全く問題ない。

「昨日駅の階段で派手に転んでしまったことについて」…ネタになる。問題なし。

「おととい見た映画で感動して泣いたことについて」…ちょっと恥ずかしいが、OK。

「先週出会った女の子に一目ぼれしたことについて」…コイツに話すことか?。でも、まぁいいや。

「その子が、友達の彼女であることがわかったことについて」…友達関係が崩れる。話すのはやめておこう。

「その子は、実は風俗嬢だったことについて」…アイツが苦しむだろう。絶対に話せない。

「その子のことを本気に好きになってしまって、どうしようもないことについて」アイツはおろか、他の友達にも相談できない…。どうしよう…。


貴方にも思い当たる節があるだろう。もちろん。私にもだ。
私たちは、このように「語ることのできる言葉」と「語ることの出来ない言葉」の2つを持ち合わせている。言葉を投げかける相手によってその度合いは変わるこそすれ、誰にも話せない、誰にも語られることのない言葉は、確実に私達一人一人に存在する。
当然ながら、既存のメディアではそのような「語られることのない言葉」を発することはできない。いくら身近なメディアでも、いくらぶっちゃけた状態でも、語られることのない言葉は厳然として私達の心の中であぐらをかいているのだ。
なぜって?。それは、これまでのこの文章を読んでいればおのずと分かるはずだ。

「語られることのない言葉」はしばしば私達の目の前を通り過ぎる。おそらく、語られることのない言葉の重さに耐え切れずに放ってしまったのだろう。それは、あるときは噂となって、あるときは都市伝説となって、あるときは怪文書となって現われる。だが、それによって傷つき、何かを失い、路頭に迷う人が現われることもまた、事実なのだ。

貴方は、そんな語られることのない言葉を発した責任を取れるだろうか?。



語られることのない言葉。このやっかいで、うざったくて、でも自分の頭から消去することのできない言葉を、何の責任も取らず、何の気兼ねもなく、思いっきり叫ぶことが出来たなら、どんなにすばらしいことだろう。つまらない日常で散々付いてきた嘘をつくこともなく、とある童話のように深い穴を掘って「大様の耳はロバの耳」とリスクを背負うこともなく、自分の奥底に眠る「思い」を発散できるなら、どんなに、どんなに、すばらしいことだろう。

語られることのない言葉を発することの出来るメディアとは、「その発言に責任を取らなくても良いメディア=発信元が特定できないメディア」である。
そんな条件を満たすことの出来るメディアは、コミュニケーション手段は、果たして存在し得るのか?。そのような、夢のようなメディアを創造することは、果たして可能なのだろうか?。



まだ一秒間に300バイトしかパソコン通信ではデータを送れなかった時代。
その時に、その「新しき」メディアは、ひっそりと産声をあげた。

そしてその「メディア」は、民衆の手によって生れたのだ。
新世紀が迎える夏に、100万人以上が参加する巨大なメディアになることも、知らずに。



朝日のような夕日をつれて
僕は立ち続ける
つなぎあうこともなく
流れあることもなく
きらめく恒星のように
立ち続けることは苦しいから
立ち続けることは楽しいから
朝日のような夕日をつれて
ぼくはひとり
ひとりでは耐えられないから
ひとりでは何もできないから
ひとりであることを認めあうことは
たくさんの人と手をつなぐことだから
たくさんの人と手をつなぐことは
とても悲しいことだから
朝日のような夕日をつれて
冬空の流星のように
ぼくは  ひとり

(朝日のような夕日をつれて 鴻上尚史 1991年 弓立社 ISBN4-89667-168-6 より引用)



続く


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